将軍吉宗の治世する18世紀なかば、京都の宮古路豊後掾(みやこじぶんごのじょう)(?-1740)の創始した豊後節(ぶんごぶし)は、その情艶さで江戸市民を夢中にさせていました。享保の改革という世情の煽りを受け、しばしば禁令の対象となったほどでした。
吉宗が隠居すると、豊後節の有力者たちは、「豊後節」「宮古路」の看板を掛け替え、新しい名前のグループを作って、江戸での再起自立を図ろうとします。宮古路加賀太夫が富士松と改姓し再出発したのに続いて、宮古路文字太夫(みやこじもじたゆう)(1709-1781)は、延享4年(1747)10月、その姓を「宮古路」(京都の意)から「関東」に、さらに「常磐津」(関東を婉曲にして江戸を言祝ぐ意)とあらため、少数の門弟たちとともに新しいスタートを歩み出しました。
 常磐津デビューの晴れ舞台となった延享4年中村座では、2世市川団十郎・初世沢村宗十郎・初世瀬川菊之丞の3人の千両役者が一同に会し、「三千両の顔見世」を実現、江戸歌舞伎はまさに黄金期を迎えていました。初世文字太夫は、こうした歌舞伎界の趨勢に巧みに乗じながら、浄瑠璃(語り物音楽)の先進地である上方に対して関東地方独自の浄瑠璃であることをその姓に標榜することで、自らの進境を世に顕示したといえましょう。
爾来、現在まで250余年、常磐津は歌舞伎の舞台を中心に連綿と活動を続けています。当初の風を伝統として、時代ごとの流行にも柔軟に対応しながら、その古格を伝えています。
現在の家元文字太夫(1947-)は、17世(文字太夫としては9世)を数えています。文字太夫・小文字太夫が、常磐津代々の家元名となっています。